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Dekalog received great reviews!

SH

7 Jul 2024

デカローグ 舞台装置 レビュー

文=荻野 洋一 制作=キネマ旬報社 

"ところが今回の新国立劇場のステージでは、アパートメントの構造がコーナーキューブ状に組まれて、空間そのものが骨組み化され、抽象性と可塑性が強調されている。キューブの中身はスプレッドシートのセルを書き換えるかのごとく、エピソードごとに自在に装飾替えがほどこされ、かえってその自在さが、現代生活の可逆性、没個性性、不安定性を炙り出している。ヨーロッパの演劇シーンでも高い評価を得てきた舞台美術家・針生康(はりう・しずか)によるセット構造そのものが、本作の真の主人公ではないか。演者たちはこのコーナーキューブ状の美術セットを上下左右に動き回るが、動き回れば回るほど、人間存在の卑小さを痛感させるしくみになっている。事の本質を醒めた眼で透過した、じつにおそるべき美術セットである。"


Yoichi Ogino Production by Kinema Junpo (Cinema Magazine)

"On the stage of the New National Theatre, however, the structure of the flat is assembled in the form of a corner cube, and the space itself is skeletonised, emphasising abstraction and plasticity. The contents of the cube are freely rearranged for each episode, as if the cells of a spreadsheet were being rewritten, and this flexibility reveals the reversibility, impersonality and instability of contemporary life. The set structure itself, created by stage designer Shizuka Hariu, who is also highly regarded in the European theatre scene, is the true protagonist of this work. The performers move up, down, left and right around this corner cube-shaped art set, but the more they move around, the more painfully they realise how small human existence is. It is a truly terrifying art set that penetrates the essence of the matter with an enlightened eye."


傑作『デカローグ』を完全舞台化―2024年7月まで、刺激に満ちた演劇体験が続く! |キネマ旬報WEB
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傑作『デカローグ』を完全舞台化―2024年7月まで、刺激に満ちた演劇体験が続く! |キネマ旬報WEB
ポーランド映画の名匠クシシュトフ・キェシロフスキ監督(1941-1996)の最高傑作の呼び声高い「デカローグ」(1989)を、このたび35年という歳月をへだてて日本の精鋭演劇人が集ってその舞台化に挑戦、4月13日から東京・新国立劇場で上演されている。一口に舞台化と言っても、映画ファンならすでにご存じのように、これは並大抵の試みではない。なにしろ「デカローグ」という作品は10話の物語が連作の形を取って、合計上映時間10時間近いオバケ作品なのである。それをまったくコンパクト化したり、エピソードを減らしたりせず、舞台用にフィットするようにアレンジを加えながらも、全10話をコンプリートさせようという途方もない演劇プロジェクトとなった。現在、新国立劇場で上演されているのは、デカローグ1『ある運命に関する物語』/デカローグ3『あるクリスマス・イヴに関する物語』/デカローグ2『ある選択に関する物語』/デカローグ4『ある父と娘に関する物語』の4話分である。残りの6話分も含め、同劇場では7月15日まで上演が続いていく。 そう聞くと、なにやら観客は長時間にわたって座席に縛り付けられ、とてつもない苦行を強いられるように想像してしまうが、意外なことに、むしろ通常以上に快適な演劇体験が待っている。1話あたりの上演時間は映像と同じように1時間前後の中編であり、1話分を終えると20分間の休憩が入る。その20分間で、いま見終えたばかりの物語の投げかけてきたものの意味や、もたらした感情の機微を、落ち着いて噛みしめ、吟味し、次のエピソードに臨むための準備もできる。筆者は今回の4話分を1日で完走したのだが、本当に充実した時間で、苦行とは無縁の演劇体験だった。 では、小川絵梨子と上村聡史の両演出家によって実現される今回の「デカローグ」舞台化の意義とはいかなるものだろうか。意義を考える前にまず前提となるのは、20世紀ポーランド演劇というものがヨーロッパ有数の前衛性で名高く、日本でも古くから多くの演劇人がその紹介に努めてきたという歴史的な背景である。ヴィトキェヴィチ、ゴンブローヴィチといった劇作家の戯曲が日本演劇人によって積極的に上演された上に、カントール、グロトフスキといった演出家の仕事や前衛的理論が多大なる影響力をもって受容されてきたのである。 そして今回、まずは4話分を客席から見ながら改めて思い起こされたのが、キェシロフスキ映画というのはずいぶんと演劇との親和性が高いのだな、ということだった。キェシロフスキ作品は、これ見よがしのスケール感を誇ったりしないし、大文字の歴史で風呂敷を広げたりもしない。むしろ、等身大の人間たちのうごめきをじっと注視する。どこにでもいる、そして欠点だらけの人間という存在の喜怒哀楽、心配、愛憎、エゴイズム、執着、追憶、心的外傷、そしてなにかを示す徴候に寄り添っていく。「デカローグ(Dekalog)」とは、ポーランド語で旧約聖書における「モーセの十戒」のことである。神の御心に沿って人間に課せられた10の掟であるわけだが、この「デカローグ」全10話に登場する人々はいずれも十戒を立派に遵守できるような存在ではない。弱さゆえに、あるいは傲慢さ、不実さのために間違いを犯してしまう存在ばかりである。戦争、環境破壊、社会不安、経済システム不全、そして文明崩壊の危機が叫ばれる今日だからこそ、弱き人々の、過ちを犯してしまう人々の等身大の姿を見つめ、その存在に寄り添うような物語を語ろう、という企画者たちの遠大な意図が感じられる。 「デカローグ」の描く時代は、統一労働者党による一党独裁の末期となる1980年代、ポーランドの首都ワルシャワ。舞台は大型集合住宅である。このような画一的な大型の集合住宅建築はワルシャワの中心部から離れた郊外の国有地に多数造成された。舞台があっちこっちに移動したりせずに、集合住宅に暮らす人々の等身大の姿に目を凝らす。この点も「デカローグ」が舞台化に適している所以である。1箇所を舞台に複数の主人公たちの物語を並列的に語っていく話法を〈グランドホテル形式〉と呼ぶ。その名前の由来は、1932年にエドマンド・グールディングが監督したアメリカ映画「グランド・ホテル」(グレタ・ガルボ&ジョン・バリモア主演)だった。「デカローグ」はまさに〈グランドホテル形式〉のドラマである。 デカローグ1『ある運命に関する物語』ではクシシュトフ(ノゾエ征爾)と幼いパヴェウ(石井舜)の父子、クシシュトフの姉イレナ(高橋惠子)が厳しい運命に晒され、デカローグ3『あるクリスマス・イヴに関する物語』ではヤヌシュ(千葉哲也)とエヴァ(小島聖)が不倫愛を再燃させる。デカローグ2『ある選択に関する物語』では医長(益岡徹)の前に現れた人妻のドロタ(前田亜季)は闘病中の夫アンジェイ(坂本慶介)を尻目に、別の男性との間の子を妊娠している。デカローグ4『ある父と娘に関する物語』ではミハウ(近藤芳正)の残した「死後開封のこと」という手紙を一人娘のアンカ(夏子)が見つけてしまったことにより、隠蔽されてきた危険な真実がいっきに吹き出してしまう。 デカローグ1の主人公クシシュトフは、決定的な運命の結果がいままさに出ようとしている重大な局面で、フットワークの悪さを露呈する。サイレンが鳴りわたり、集合住宅の住人たちが慌てふためき、ヘリコプターのプロペラ音が頭上を通過しているというのに、クシシュトフは息子パヴェウの英語塾の先生に連絡を取ってみたり、近所の女の子に事情を尋ねたり、集合住宅の階段やエレベーターで昇降したり、トランシーバーで通信を試みたりと、大学教授としてのふだんの切れ者ぶりが肝心なときに影を潜めて、運命的な出来事が起きている現場になかなか辿りつかない。私たち観客はクシシュトフのフットワークの悪さに苛立ちを隠せないが、そのフットワークは私たちの自画像にほかならない。徴候はたしかにあった。しかしこれほど残酷なしっぺ返しを食らうほど、彼は罪びとなのか? その答えはどこからも返ってこない。この判定不在こそが十戒=デカローグの真の掟である。 ひとりとして完璧な人間なんておらず、誰もが欠点や罪を抱え、傷を負い、苦悩を内に宿しつつもなんとか生活している。その等身大の姿が、集合住宅の内部を覗き込むようにして開陳されていく。2でメインキャラクターだった医長は4では脇役にまわり、1で主人公だったクシシュトフは3では一歩行者として界隈にまぎれていく。登場人物のさりげない進退が〈グランドホテル形式〉の豊かなゲーム性を醸しつつも、例外的に1名だけ各話に登場する男がいる。亀田佳明が演じるこの男は、ときに湖畔で焚き火する男だったり、ときに病院の当直医だったり、必ず各話で容姿を変えながら登場し、一言もセリフを喋らずに、主人公たちの運命に干渉しないまま観察している。天使にも見えるし、作者の分身のようにも見える。 しかしながら、今回の4話分の上演を見終えたいま、筆者にはこの「デカローグ」舞台上演版の真の主人公は、集合住宅そのものだという気がしている。キェシロフスキの映画版(本国ではポーランド公共放送「PTV」のテレビドラマとして発表された)では的確なモンタージュとロケーションによってリアリズム描写が徹底され、集合住宅の大型アパートメントは、社会主義末期の庶民の暮らしを〈グランドホテル形式〉で象徴的に提示するロケーションでしかなかった。ところが今回の新国立劇場のステージでは、アパートメントの構造がコーナーキューブ状に組まれて、空間そのものが骨組み化され、抽象性と可塑性が強調されている。キューブの中身はスプレッドシートのセルを書き換えるかのごとく、エピソードごとに自在に装飾替えがほどこされ、かえってその自在さが、現代生活の可逆性、没個性性、不安定性を炙り出している。ヨーロッパの演劇シーンでも高い評価を得てきた舞台美術家・針生康(はりう・しずか)によるセット構造そのものが、本作の真の主人公ではないか。演者たちはこのコーナーキューブ状の美術セットを上下左右に動き回るが、動き回れば回るほど、人間存在の卑小さを痛感させるしくみになっている。事の本質を醒めた眼で透過した、じつにおそるべき美術セットである。 一映画評論家としてのちょっとした推理であるが、針生康によるこのコーナーキューブ状の美術セットは、川島雄三監督の映画「しとやかな獣」(1962)における上下左右に積み木されたような団地セットにインスパイアーされたものではないか。高度経済成長期の東京・晴海団地をモデルに、大映の名美術監督・柴田篤二によって造形されたあのみごとなキューブ状の美術セットが、2024年の演劇プロジェクトで時ならぬ復活ぶりを見せたのかもしれない。そんなことを勝手気ままに考えながら帰途に着くと、なにやら1962年〜1989年〜2024年という時間が遥かなる飛翔を披露してくれたように思われ、心がふわっと軽くなった。 この〈グランドホテル形式〉の連作を全10話にわたり完走したとき、私たち鑑賞者の前にはいかなる光景が広がっているのだろうか。今年7月まで、刺激に満ちた演劇体験が続いていく。 文=荻野 洋一 制作=キネマ旬報社  「デカローグ」 デカローグ1~4[プログラムA、B交互上演]=2024年4月13日[土]~5月6日[月・休] デカローグ5・6[プログラムC]=2024年5月18日[土]~6月2日[日] デカローグ7~10[プログラムD、E交互上演]=2024年6月22日[土]~7月15日[月・祝] 会場:[東京]新国立劇場 小劇場 ▶公式サイトはコチラから

港 岳彦 (脚本家/九州大学芸術工学研究院教授)

”今、あの10篇の物語が、洗練を極めるミニマムな舞台芸術にみごと転生したことに感動している。原作が駆使した暗喩や象徴を明瞭に絵解きして再構築した舞台装置の妙。原作が海外の作品であることを忘れさせる演者たちの真実味。この物語群は劇場から世界へと、確かに広がっている。”


Takehiko Minato、Professor and Dramatist

"Now I am impressed by the ten stories that have been beautifully reincarnated into minimalist theatre art of the utmost sophistication. The stage set-up is a marvellous reworking of the metaphors and symbolism of the original stories, clearly illustrated. The veracity of the performers makes us forget that the original is a foreign work. This group of stories has indeed spread from the theatre to the world."



文=荻野 洋一 制作=キネマ旬報社 

"筆者は「デカローグ」1〜4話について書いたレビュー記事、および5&6話についてのレビュー記事において、この未曾有の大型演劇プロジェクトの真の主人公は、人間たちのうごめく数棟の集合住宅である、と重ねて強調してきた。そしてそのうごめきを根底から支えるコーナーキューブ状の空間をしつらえた針生康(はりう・しずか)によるセット構造こそ、今回の連続上演の肝であり、ヨーロッパ演劇シーンでも高い評価を得てきたこの舞台美術家がエピソードごとに縦横無尽に組み替えてみせるセット構造が、人間生活の代替性、可塑性、非人称性、没個性を残酷にきわだたせているのだと強調してきた。........


デカローグ1〜4について書いた前回原稿で筆者は、「デカローグ」舞台上演版の真の主人公は、団地の建物そのものだと述べた。ヨーロッパ演劇シーンで高い評価を得てきた舞台美術家・針生康(はりう・しずか)によるコーナーキューブ状の美術セットが、社会主義末期の庶民の暮らしを、抽象的かつ可塑的に炙り出していた。しかしデカローグ5『ある殺人に関する物語』では団地のプレゼンスは後景に退いて、その軒先スペースが無造作に映画館の窓口となり、殺人現場となり、裁判所となり、処刑場となっていく。住居としての機能が剥奪され、人間ばかりでなく、場所もさしたるセットチェンジさえないままに代替性、相互置換性、可塑性が強調されている。一方、デカローグ6『ある愛に関する物語』ではコーナーキューブ状の美術セットが再び住居としての機能を回復し、隣接した棟の窓と窓という劇的な視線劇を現出せしめる。"


Yoichi Ogino Production by Kinema Junpo (Cinema Magazine)

"In the previous article written about Decalogue 1-4, the author stated that the real protagonist of the stage performance version of Decalogue is the apartment block building itself. The corner cube-shaped art set by stage designer Shizuka Hariu, who has been highly acclaimed in the European theatre scene, seared the lives of ordinary people at the end of the socialist era in an abstract and plastic manner. In Decalogue 5: A Story of a Murder, however, the presence of the apartment block recedes into the background and its eaves space becomes a haphazard cinema window, a murder scene, a courtroom and an execution site. Stripped of its function as a dwelling, not only the people but also the place emphasises substitutability, inter-substitutability and plasticity without even the slightest set change. On the other hand, in Decalogue 6, A Story about Love, the corner-cube art set regains its function as a dwelling, revealing a dramatic eye drama of windows to windows in adjacent wings."


物語、俳優、空間が絶妙に調和する傑作舞台『デカローグ』絶賛上演中 デカローグ5『ある殺人に関する物語』&デカローグ6『ある愛に関する物語』 |キネマ旬報WEB
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物語、俳優、空間が絶妙に調和する傑作舞台『デカローグ』絶賛上演中 デカローグ5『ある殺人に関する物語』&デカローグ6『ある愛に関する物語』 |キネマ旬報WEB
ポーランド映画の名匠クシシュトフ・キェシロフスキ監督(1941-1996)の最高傑作の呼び声高い「デカローグ」(1989)。全10話のパートで構成され、合計で10時間近い上映時間をもつオバケ作品を、このたび日本の精鋭演劇人が集ってその舞台化に挑戦、東京・新国立劇場で絶賛公演中である。現在上演されているのはデカローグ5『ある殺人に関する物語』とデカローグ6『ある愛に関する物語』の2パート。デカローグ1/2/3/4はすでに終演してしまったものの、各パートに連続性はなく、独立した物語であるため、デカローグ5/6から見始めてもなんの問題もない。残りのデカローグ7/8/9/10も含め、同劇場では7月15日まで上演が続いていく。一話あたりの上演時間はキェシロフスキ版と同じく1時間前後の中編であり、一話分を終えると20分間の休憩が入る。合計10時間といっても、肩の凝る重厚さはまるでなく、映画で言うならオムニバスを見ていくようなカジュアルな感覚で各パートを味わっていける点が心地よい。 デカローグ1〜4について書いた前回原稿はこちら 「デカローグ(Dekalog)」とは、ポーランド語で旧約聖書における「モーセの十戒」のこと。神の御心に沿って人間に課せられた10の掟であるわけだが、「デカローグ」全10話に登場する人々はいずれも十戒を立派に遵守できるような存在ではない。わたしたち人間の生はなんと弱々しく、傲慢さ、不実さに満ちているのだろう。ちょっとしたきっかけで間違いをしでかし、罪を犯し、愛すべき人を傷つけてしまう。あるいはその人を永遠に失ってしまう。クシシュトフ・キェシロフスキはそうしたあやまちのひとつひとつを拾い上げていく。その手つきは慈愛に満ちてはいるが、これみよがしの救済や同情はきびしく遠ざけている。 今回のデカローグ5『ある殺人に関する物語』、そしてデカローグ6『ある愛に関する物語』の場合、前者は殺人、後者は恋愛について語っており、全10話にあって最も重大な局面を扱っていると言っても過言ではなく、キェシロフスキ的主題が最も濃厚にあらわれた2作品かもしれない。デカローグ5は全10話に先がけて「殺人に関する短いフィルム」(1988)というタイトルでまず単独作として発表され、ヨーロッパ映画賞の作品賞を受賞。仏「カイエ・デュ・シネマ」選考の1988年ベスト・テンでみごと1位に輝いている。なお、同誌のベスト・テン2位は「プラハの春」に材をとった「存在の耐えられない軽さ」であり、東欧民主化と軌を一にしてこの2本が歴史に名を残した格好である。 デカローグ5では20歳のヤツェク(福崎那由他)がタクシードライバーのヴァルデマン(寺十吾)を衝動的に殺害し、裁判で絞首刑を言い渡される。ヤツェクは死刑執行前、新人弁護士ピョトル(渋谷謙人)に自身の心情を語る。死刑を前にしてようやくヤツェクは心の友を見つけたのかもしれない。 デカローグ6では19歳の郵便局員トメク(田中亨)が団地の隣の棟に住む美しい30代女性マグダ(仙名彩世)を望遠鏡で夜ごと覗いている。マグダと面と向かって会うことにしたトメクは、彼女に愛を告白する。どちらも孤独な青年のよるべなき境遇が次第にあきらかになってきて、ヤツェクの殺人もトメクの覗きも決して同情には値しないものではあるが、2人の青年のやるせなさ、痛ましさは観客の心に響くことだろう。 脇役陣の登場方法が独特である点は、今回の舞台版「デカローグ」の大きな特長である。殺害されるタクシードライバーを演じた寺十吾(じつなし・さとる)は、死刑執行シーンで教誨を担当する神父として再登場する。名越志保は、団地内の映画館でチケット売り場の冷淡な女を演じたのを手始めに、裁判長として弁護士ピョトルを諭したり、死刑場立ち合いの医師に変貌したりし、デカローグ6ではトメクの友人の母親マリアを演じ、疎遠な息子の代わりにトメクと同居している。また斉藤直樹は、マグダが同時につきあっている三人の恋人をメイク、衣裳で変装しながら一人で器用に演じ分けていて、ニヤリとさせられた。もちろん、デカローグ1〜4全話で登場した天使のような無言の人(亀田佳明)は、今回もあらゆる姿に変化しながら主人公たちの脇を物言わずに通り過ぎていく。亀田佳明がさまざまに演じるのは、土地に宿った残留思念のようなものだと思われる。 このように、一演者が複数の役を演じること、ポリヴァレント(複数のポジションをフレキシブルにこなせる能力)に変容していくことは、つまり人間存在の代替性、相互置換性、可塑性を指し示しているだろう。わたしたち人間は、ひとりひとりがかけがえのない存在だと思いたい。しかし惑星レベルで俯瞰した場合、わたしたち人間は川底に沈む小石ていどの差異しか持たないのかもしれない。「デカローグ」という作品はそんな冷酷な真理をもってわたしたちを脅かしつつ、一方で小石のひとつひとつのかけがえのなさに回帰しようとしているのではないか。 デカローグ1〜4について書いた前回原稿で筆者は、「デカローグ」舞台上演版の真の主人公は、団地の建物そのものだと述べた。ヨーロッパ演劇シーンで高い評価を得てきた舞台美術家・針生康(はりう・しずか)によるコーナーキューブ状の美術セットが、社会主義末期の庶民の暮らしを、抽象的かつ可塑的に炙り出していた。しかしデカローグ5『ある殺人に関する物語』では団地のプレゼンスは後景に退いて、その軒先スペースが無造作に映画館の窓口となり、殺人現場となり、裁判所となり、処刑場となっていく。住居としての機能が剥奪され、人間ばかりでなく、場所もさしたるセットチェンジさえないままに代替性、相互置換性、可塑性が強調されている。一方、デカローグ6『ある愛に関する物語』ではコーナーキューブ状の美術セットが再び住居としての機能を回復し、隣接した棟の窓と窓という劇的な視線劇を現出せしめる。 ここで筆者が注目するのは、望遠鏡をめぐる演出である。トメクが向かいの棟に住むマグダを窓ごしに覗く際に使われ、果てはトメクがマグダの部屋に通された夜、こんどは同居する母親代わりのマリアまでが2人の痴態を覗くあの望遠鏡。アルフレッド・ヒッチコック監督の名作サスペンス「裏窓」(1954)を思い出さずにはいられない望遠鏡は、距離を無化して見る者/見られる者を対峙させる超映画的な装置である。ところが「デカローグ」舞台上演版の望遠鏡は、マグダの部屋の窓に向けられているという設定の名において、じつのところはわたしたち観客の方角に向けられている。演劇空間にはショット/リバースショット(切り返しショット)は成立しないという宿命をあからさまに開示しつつ、むしろその宿命を逆手にとって、第四の壁たる客席をバウンドさせることによってイマジナリーなショット/リバースショットを捏造せしめたのだ。このアクロバティックな視線の演出を経ることによって、ラストシーンにおける至近距離で向かい合うトメク/マグダの視線劇の緊張を、キェシロフスキ版とはまったく異なる方法で打ち出したのである。 マグダの部屋から去って自室に戻ったトメクが、ここでは詳細を控えるが、ある決定的な行為をするためにある部屋に入るのだが、そこはトメクとマリアの同居する棟ではなく、コーナーキューブ状の美術セット上の配置としてはマグダの部屋の真下に取り残された奇妙な空間——なにもないような、カーテンで遮蔽されたようなエンプティ空間——にしつらえられている。じつに奇妙な空間演出であり、決定的なできごとがマリアの足元で起こることによって、それは団地という場所の残留思念へと移り変わっていくことだろう。その意味で、この演劇作品の「真の主人公は団地の建物そのもの」であることには依然として変わりがないのである。小川絵梨子&上村聡史の両演出家が、人間と空間のありようをめぐって、来たるべきデカローグ7/8/9/10においてもどのようなさらなる深化を見せてくれるのか、楽しみが募る。 文=荻野 洋一 制作=キネマ旬報社  【『デカローグ5・6』[プログラムC]公演概要】 【公演期間】2024年5月18日(土)~6月2日(日) 【会場】新国立劇場 小劇場 【原作】クシシュトフ・キェシロフスキ、クシシュトフ・ピェシェヴィチ 【翻訳】久山宏一 【上演台本】須貝 英 【演出】小川絵梨子/上村聡史 デカローグ5 『ある殺人に関する物語』 演出:小川絵梨子 出演: 福崎那由他、渋谷謙人、寺十 吾 / 斉藤直樹、内田健介、名越志保、田中 亨、坂本慶介 / 亀田佳明 デカローグ6『ある愛に関する物語』 演出:上村聡史 出演:仙名彩世、田中 亨 / 寺十 吾、名越志保、斉藤直樹、内田健介 / 亀田佳明 【公式HP】https://www.nntt.jac.go.jp/play/dekalog-c/

文=荻野 洋一 制作=キネマ旬報社 

筆者は「デカローグ」1〜4話について書いたレビュー記事、および5&6話についてのレビュー記事において、この未曾有の大型演劇プロジェクトの真の主人公は、人間たちのうごめく数棟の集合住宅である、と重ねて強調してきた。そしてそのうごめきを根底から支えるコーナーキューブ状の空間をしつらえた針生康(はりう・しずか)によるセット構造こそ、今回の連続上演の肝であり、ヨーロッパ演劇シーンでも高い評価を得てきたこの舞台美術家がエピソードごとに縦横無尽に組み替えてみせるセット構造が、人間生活の代替性、可塑性、非人称性、没個性を残酷にきわだたせているのだと強調してきた。......


今回の壮大プロジェクト「デカローグ」で起きたこととは、不可能であるはずのショット/リバースショット(切り返しショット)を仮構しつつ、舞台を見ているはずの私たち観客を登場人物が見返すことであり、私たち観客は、この巨大作品の主人公たる集合住宅の建築物そのものへと転化させられる形となったのである。このような異様な試みによって、私たちは、知らず知らずのうちに作品内へと吸収されていたわけである。物語環境への観客の吸収というこの事態に、私たちは大いに戦慄すべきである。”


Yoichi Ogino Production by Kinema Junpo (Cinema Magazine)

"In the review articles I wrote on Decalogue episodes 1-4 and 5 & 6, I repeatedly stressed that the real protagonists of this unprecedented large-scale theatre project are a series of houses in which people are seething. The set structure by Shizuka Hariu, who has created a corner cube-like space that underpins these groans, is the heart of this series of performances, and the set structure, which the stage designer, who is also highly regarded in the European theatre scene, reconfigures in all directions from episode to episode, is the key to the human The set structure, which the set designer, who is highly regarded on the European theatre scene, reconfigures in every episode, brutally highlights the substitutability, plasticity, impersonality and impersonal nature of human life.....


What happened in the spectacular project "Decalogue" was that the characters looked back at us, the audience, who were supposed to be watching the stage, while they were temporarily constructing a shot/reverse shot (a turnaround shot), which should have been impossible, and we, the audience, were transformed into the very architecture of the housing complex that was the protagonist of this huge work. We, the spectators, were transformed into the main character of this gigantic work, the building of the housing complex itself. In this bizarre experiment, we were unwittingly absorbed into the work. This absorption of the spectator into the narrative environment should make us shudder.

日本の精鋭演劇人が集って「デカローグ」の舞台化に挑戦、いよいよ最終章に突入! |キネマ旬報WEB
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日本の精鋭演劇人が集って「デカローグ」の舞台化に挑戦、いよいよ最終章に突入! |キネマ旬報WEB
ポーランド映画の名匠クシシュトフ・キェシロフスキ監督(1941-1996)の最高傑作の呼び声高い「デカローグ」(1989)。全10話のパートで構成され、合計で10時間近い上映時間をもつオバケ作品を、このたび日本の精鋭演劇人が集ってその舞台化に挑戦、東京・新国立劇場で絶賛上演中である。すでに1〜6話の公演が終了し、いよいよ最終プログラムに突入した。 現在上演されているのはデカローグ7『ある告白に関する物語』、デカローグ8『ある過去に関する物語』、デカローグ9『ある孤独に関する物語』、そして最終話となるデカローグ10『ある希望に関する物語』(7&8は上村聡史、9&10は小川絵梨子が演出を分担)の4話分。しかしデカローグ1〜6を見逃していても、各パートに連続性はなく、独立した物語であるため、今回のプログラムのみの鑑賞でもなんの問題もない。一話あたりの上演時間はキェシロフスキ版と同じく1時間前後の中編であり、一話分を終えると20分間の休憩が入るため、オムニバス映画を見ていくようなカジュアルな感覚で各パートを味わっていける。 付記しておきたいのがパンフレットの趣向。デカローグ1〜4、デカローグ5・6、デカローグ7〜10と合計3冊のパンフレットが作られ、販売されているが、3冊全部の表紙を合わせると、夕景にそびえる集合住宅をとらえた3枚続きのパノラマが完成する。ぜひ3冊とも入手され、作品世界にどっぷりと浸かっていただけるとさいわいである。 「デカローグ(Dekalog)」とは、ポーランド語で旧約聖書における「モーセの十戒」のこと。「汝、姦淫するなかれ」「汝、隣人の財産を貪るなかれ」など、神の御心に沿って人間に課せられた10の掟であるわけだが、「デカローグ」全10話に登場する人々はみな十戒を立派に遵守できるような存在ではない。この10の物語はすべて十戒を侵犯する物語となるが、だからといって誰ひとりとしてマフィアのような確信や明確な策略をもって侵犯するのではない。みずからの弱さ、卑しさに負けて、侵犯者におちいってしまうのである。つまり、これは私たち弱き普通の人間による10の物語である。私たちのあやまちをひとつひとつ拾い上げるキェシロフスキの手つきは慈愛に満ちてはいるが、これみよがしの救済や同情はきびしく遠ざけている。 デカローグ7『ある告白に関する物語』ではマイカ(吉田美月喜)とその母エヴァ(津田真澄)の長年の確執がとうとう決裂へと向かい、デカローグ8『ある過去に関する物語』では大学教授ゾフィア(高田聖子)の過去の罪悪感がアメリカ在住の女性エルジュビェタ(岡本玲)の訪問によってあぶり出され、デカローグ9『ある孤独に関する物語』ではロマン(伊達暁)とハンカ(万里紗)の夫婦関係はハンカの不倫によって深傷を負う。そしてデカローグ10『ある希望に関する物語』ではアルトゥル(竪山隼太)とイェジ(石母田史朗)の兄弟が父の残した膨大な切手コレクションによって罠にかかったかのように、滑稽な愚行のスパイラルにはまっていく。 一話ずつ独立した物語とはいうものの、各話のあいだにかすかな繋がりが見え隠れして、観客を楽しませもする。デカローグ8のゾフィアの倫理学授業で女子学生が披露する逸話は、デカローグ2で夫以外の男とのあいだにできた子を堕すかどうか悩むドロタ(前田亜季)の話がおそらく集合住宅中で醜聞になったということだろうし、デカローグ10で切手コレクションを遺して死んだ兄弟の父は、デカローグ8のゾフィアの友人として登場した切手コレクター(大滝寛)のことであることが明らかだし、その隣にはデカローグ9の不倫妻ハンカが住んでおり、兄弟に対してお悔やみを述べたりする。 デカローグ7『ある告白に関する物語』の主人公マイカ(吉田美月喜)と厳格な母エヴァ(津田真澄)の対立は、まるでスウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマンの映画のように胸が締めつけられる。親子愛はあったはずだが、それがどこかへ行方不明となってしまっている。そしていま、この母娘の対立のはざまでマイカの6歳になる娘が、大人たちの精神状態に振り回され、無為な移動をさせられ、勝手な都合で「もう寝なさい」とむりやり寝かしつけられる。デカローグ7は十戒では「汝、盗むなかれ」。さて、ここではいったい何が盗まれているのか。——おそらく、子どもが受けるべき愛と慈しみ、そして子どもが子どもらしく生きていける時間そのものが盗まれているのだろう。 デカローグ9『ある孤独に関する物語』の主人公ロマン(伊達暁)はすべてを失う。医師に性的不能を宣告されただけでなく、妻のハンカ(万里紗)は近所の大学生と不倫している。しかしこれはロマンの悲劇と孤独への同情で終始する物語ではない。むしろ物語で試されている主体はハンカであり、彼女は侵犯者としての自分の進退をどのように向けようとするのかが焦点となる。全10話にわたって物語の舞台となってきたワルシャワの集合住宅において、ハンカは実母が転居した跡の空き部屋もキープし、そこが好都合な不倫現場となる。だがこの無人の余白こそ、彼女の弱点なのである。 筆者は「デカローグ」1〜4話について書いたレビュー記事、および5&6話についてのレビュー記事において、この未曾有の大型演劇プロジェクトの真の主人公は、人間たちのうごめく数棟の集合住宅である、と重ねて強調してきた。そしてそのうごめきを根底から支えるコーナーキューブ状の空間をしつらえた針生康(はりう・しずか)によるセット構造こそ、今回の連続上演の肝であり、ヨーロッパ演劇シーンでも高い評価を得てきたこの舞台美術家がエピソードごとに縦横無尽に組み替えてみせるセット構造が、人間生活の代替性、可塑性、非人称性、没個性を残酷にきわだたせているのだと強調してきた。 「デカローグ」1〜4話の記事⇒https://www.kinejun.com/article/view/37358 「デカローグ」5&6話の記事⇒https://www.kinejun.com/article/view/38264 そして最終プログラムのうちデカローグ8『ある過去に関する物語』こそ、今回の連続上演の総括ともいうべき状況を作り出しているのではないか、と筆者は考える。集合住宅のセットは絶えず組み替えられ、あらゆる人々の喜怒哀楽を飲み込んできた。それは小宇宙と化し、社会/人間生活についての仔細なジオラマを形成してきた。 ところが『ある過去に関する物語』において、大学で倫理学を講じる女性教授ゾフィア(高田聖子)と、彼女の著作を英訳してきたアメリカ在住の女性エルジュビェタ(岡本玲)のあいだの苛酷な過去の宿縁が白日のもとに晒され、ゾフィアという倫理学者の依って立つ倫理性が再審にふされた日、集合住宅内の自宅にエルジュビェタを招待したゾフィアは、なぜかはよくわからない理由でエルジュビェタを見失ってしまう。勝手知ったるはずの集合住宅のいつもの階段、いつもの廊下、いつもの隣人が、突然に気味の悪い未知の領域へと転移していってしまったかのようだ。 さいわい再び姿を現したエルジュビェタとゾフィアは、ふたりサイド・バイ・サイドで集合住宅がずらりと数棟並ぶ風景を当惑げに見上げる。 「変わったアパートですね」「そして変わった人たち」 さらにもう一度見上げて、「変わった国」とつぶやく。ここに至ってついに、集合住宅という無人格化された神の視点が、そこにうごめく人々――ここではエルジュビェタとゾフィア――の目線を借りて転移し、映画とは異なる演劇にとっては絶対に不可能であるはずのショット/リバースショット(切り返しショット)が仮構されてしまう瞬間に、私たちは立ち会うことになるのである。 その切り返しショットとは何だったのか? そう、それは登場人物と、実際には彼らには見えていないはずの「第四の壁」たる客席とのあいだで交わされたショット/リバースショット(切り返しショット)である。おもむろに客電が薄ら暗く点灯し、女性二人は私たち客席の群衆を見上げる格好となる。今回の壮大プロジェクト「デカローグ」で起きたこととは、不可能であるはずのショット/リバースショット(切り返しショット)を仮構しつつ、舞台を見ているはずの私たち観客を登場人物が見返すことであり、私たち観客は、この巨大作品の主人公たる集合住宅の建築物そのものへと転化させられる形となったのである。このような異様な試みによって、私たちは、知らず知らずのうちに作品内へと吸収されていたわけである。物語環境への観客の吸収というこの事態に、私たちは大いに戦慄すべきである。 文=荻野洋一 制作=キネマ旬報社  【『デカローグ7~10』[プログラムD ・ E 交互 上演]公演概要】 【公演期間】2024年6月22日(土)~7月15日(月・祝) 【会場】新国立劇場 小劇場 【原作】クシシュトフ・キェシロフスキ、クシシュトフ・ピェシェヴィチ 【翻訳】久山宏一 【上演台本】須貝 英 【演出】上村聡史/小川絵梨子 デカローグ7 『ある告白に関する物語』 演出:上村聡史 出演: 吉田美月喜、章平、津田真澄/大滝 寛、田中穂先、堀元宗一朗、 笹野美由紀、伊海実紗/安田世理・三井絢月(交互出演)/亀田佳明 デカローグ8『ある過去に関する物語』 演出:上村聡史 出演:高田聖子、岡本玲、大滝 寛/田中穂先、章平、堀元宗一朗、笹野美由紀、伊海実紗/亀田佳明 デカローグ9 『ある孤独に関する物語』 演出:小川絵梨子 出演:伊達 暁、万里紗、宮崎秋人/笠井日向、鈴木将一朗、松本 亮、石母田史朗/亀田佳明 デカローグ10『ある希望に関する物語』 演出:小川絵梨子 出演:竪山隼太、石母田史朗/鈴木将一朗、松本 亮、伊達 暁、宮崎秋人、笠井日向、万里紗/亀田佳明 【公式HP】https://www.nntt.jac.go.jp/play/dekalog-de/


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